【後半】台湾ドラマ「傀儡花(英訳:Lady the Butterfly)」の舞台を先取り♪後半は牡丹社事件を中心に巡ります!

考えや言葉の違う人を思いやり、理解を深めることの大切さを学んだ旅になりました!

こんにちは、台北ナビです。

多くの期待が寄せられる「傀儡花(英訳:Lady the Butterfly)」。このドラマをより深く味わうべく、原作本である「傀儡花」に登場する舞台を巡るこの記事。前半では羅發號事件(ローバー号事件)に関するスポットを中心にご紹介しましたが、後半は牡丹社事件(宮古島島民遭難事件から台湾出兵に至るまでの一連の事件)ゆかりのスポットを訪れてみました!

日本人も知っておきたい歴史がある「石門古戰場」

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この階段を上がっていくと記念碑に辿りつきます

この階段を上がっていくと記念碑に辿りつきます

台湾出兵では、日本軍は四重溪に沿って北上し、牡丹社にまで攻め入りました。四重溪は石門山と五重溪山に挟まれていて、崖が屏風のようにそそり立ち、かなりの険しさです。崖の上からの攻撃は容易く、逆に下から攻め入るにはかなり難しかったのです。原住民はこの土地をよく理解していたため、戦いをスムーズに進め、日本軍は苦戦を強いられました。

とはいえ、5月22日に発生した「石門之役」では、牡丹社の酋長である阿祿古父子を含む30名が命を落としていて、牡丹社にとっても非常に険しい戦いだったといえます。
絶壁

絶壁

記念碑

記念碑

その後日本の統治が始まると、日本政府は台湾出兵の主戦場であった「石門古戰場」に記念碑を建てました。

この記念碑、するどい剣のように見えますよね?これには戦いで苦戦させられた石門山と五重溪山を断ち切り、ここに住む原住民の人々の教育と統治がうまくいきますようにという願いを込めていたといわれています。
この記念碑のそばにこの戦のために死した兵士を記念するため作られた忠魂碑があります。戦死した兵士だけかと思いきや病死した兵士のためでもあります。何でも戦死した兵士は12人ですが、マラリアなどの感染症で病死した兵士は500人を超えたのだとか。

元々は199号県道の横にありましたが、道拡大に伴いこの丘の上に移動してきました。忠魂碑と刻まれた碑文はなくなり、今は台座だけ残されています。
忠魂碑

忠魂碑

こののどかな場所が激戦地となったのですね…… こののどかな場所が激戦地となったのですね…… こののどかな場所が激戦地となったのですね……

こののどかな場所が激戦地となったのですね……

休憩する場所もきちんと作られているので、疲れたら休憩してくださいね! 休憩する場所もきちんと作られているので、疲れたら休憩してくださいね! 休憩する場所もきちんと作られているので、疲れたら休憩してくださいね!

休憩する場所もきちんと作られているので、疲れたら休憩してくださいね!

「高士佛社」は映えるだけじゃない!牡丹社事件において重要な意味を持つ場所でした

今回ガイドをしてくださった雅妲嵐(ヤダン)さん

今回ガイドをしてくださった雅妲嵐(ヤダン)さん

台湾出兵」の導火線となったと言われる「宮古島島民遭難事件」。中国語名は「八瑤灣事件」といい、ローバー号事件の時のように、宮古船が八瑤灣に漂流し、台湾に上陸しましたが、高士佛社の原住民によって殺害されました。そして「台湾出兵」では石門之役の後、三手に分かれた日本軍が村を焼き払い、7月1日に最後まで抵抗をしていた牡丹社、高士佛社、女仍社が投降。現地の占領を続けました。

そう、「高士佛社」は「宮古島島民遭難事件」にも「台湾出兵」にも関わりがあるんです。そんな高士佛社ですが、最近は映えるスポットがあると人気を博しています。今回はガイドの雅妲嵐(ヤダン)さんに、高士佛社について詳しく教えていただきました!
この日は小雨が降っていましたが、晴れると青い空、青い海の絶景が見られます!

この日は小雨が降っていましたが、晴れると青い空、青い海の絶景が見られます!

ナビが訪れたのは「高士野牡丹神社公園」。ここは昔、高士佛社があった場所でした。当時、牡丹鄉には6つの村(集落)がありましたが、その中間に位置していて、どこへ行くにも30分ほど。この立地の良さを見越して日本軍はここに来たのですね。ここは、見晴らしが良く、立地はいいけれど、住むにはあまり適していません。水源が集落のかなり下の方にある関係で、田んぼも遠くのところにありました。その当時、階段もない道を、穀物を担いで集落まで運んでいたというから驚きです。
原住民の言葉では「サジュンジュン」といい、のぼる時に膝が鼻に当たるほど傾斜があるという意味だとか

原住民の言葉では「サジュンジュン」といい、のぼる時に膝が鼻に当たるほど傾斜があるという意味だとか

捨て犬の烏鴉(カラス)くんも下へ行くのをためらっていたほど

捨て犬の烏鴉(カラス)くんも下へ行くのをためらっていたほど

牡丹社という名前があることから分かるように、ここでは3月末から5月初めくらいに牡丹の花が美しく咲き、野牡丹花季(牡丹花フェスティバル)が開催されます。八八水害により、一部新しく植えたものもありますが、昔から咲いているものも少なくないのだとか。また、芙蓉も多いそうで、ここに住む人々にとって、芙蓉がつぼみの頃は毛ガニを採りに行く目安になっているそうです。原住民の人々と話していると、自然を大切にして、上手に共存している様子が感じられます。
時季が来ると牡丹の花が美しく咲きます!

時季が来ると牡丹の花が美しく咲きます!

説明文もありますよ~

説明文もありますよ~

芙蓉

芙蓉

パイワン族的要素、どれだかわかりますか?

パイワン族的要素、どれだかわかりますか?

ここのSNSスポットとは「高士神社」の鳥居なのですが、鳥居へと向かう階段にはパイワン族の要素が散りばめられていました。しかし、実はパイワン族とひとくくりにはできないほど、パイワン族は東西南北でかなり異なる特色があるようです。

黒がメインで百歩蛇や甕をモチーフにして華麗というのが一般的なイメージですよね?しかし高士佛社は、古くから客家人と交易をしていたことから、客家の影響を強く受けています。雅妲嵐(ヤダン)さんの服には客家花布が使われていたほどです。建築様式にも客家らしさがあるのだとか。階段の石板は、パイワン族っぽいし、高士佛社もそうなのだろうと思ったのですが、これは北パインワン族の要素で、本来なら砂岩や頁岩を使うべきなのだとか。パイワン族、奥が深し!
パイワン族の集落でよく見られる石板

パイワン族の集落でよく見られる石板

これが高士佛社らしい建材!

これが高士佛社らしい建材!

客家花布が使われた原住民の服!

客家花布が使われた原住民の服!

鳥居をくぐるとひっそりと高士神社がありました。見るからに修復されたこの神社ですが、1939年に建立された当時の様子がどういうものだったかを記したものはありません。その後、3.11地震の際の恩を返したいという思いだけで、現職の神職である佐藤健一さんが2015年に再興。

2016年には寄付により鳥居が奉納されました。白いその見た目からてっきりコンクリート的なもので作られたと思ったのですが、なんとヒノキを使っています。それを春節だからということで白く塗ったそうなのです。ヒノキの木目が見えた方が雰囲気が出るのになぁ……という思うのはナビだけ?
石垣の礎石(台座)はそのまま

石垣の礎石(台座)はそのまま

なんか黒い方がおられる……

なんか黒い方がおられる……

ワンちゃんが気持ち良さそうにいました!

ワンちゃんが気持ち良さそうにいました!

衝撃の白塗装!根の部分を見るとこれが木でつくられたのだとわかります 衝撃の白塗装!根の部分を見るとこれが木でつくられたのだとわかります 衝撃の白塗装!根の部分を見るとこれが木でつくられたのだとわかります

衝撃の白塗装!根の部分を見るとこれが木でつくられたのだとわかります

鳥居の先に見えるのは台東の東部の海。そうすべての始まりである「八瑤灣(またの名を九棚灣)」が見えるのです!しかも天気が良ければ墾丁の大尖山も見えます 鳥居の先に見えるのは台東の東部の海。そうすべての始まりである「八瑤灣(またの名を九棚灣)」が見えるのです!しかも天気が良ければ墾丁の大尖山も見えます

鳥居の先に見えるのは台東の東部の海。そうすべての始まりである「八瑤灣(またの名を九棚灣)」が見えるのです!しかも天気が良ければ墾丁の大尖山も見えます

高士佛社の人はこう歴史を見ていました!

雅妲嵐(ヤダン)さんは、ナビ一行に日本人がいるということも承知で、個人的な意見と部族に伝わる話をしてくださいました。
まず、日本人は高士佛の人々に申し訳が立たないことをしたでしょう?でも高士佛的人は宮古島の人々に申し訳ないことをしたと思っています。それは誤解が生んだことだと信じていますが、日本人の野心も見逃せないと思っています。高齢者に「懐かしい時代はいつ?」とたずねると、「日本が統治していた時代だよ。家の鍵を閉めなくても安心して暮らせるくらいいい時代だったんだよ!」と目を細めて語るんです。ここで起きた様々なことは、歴史だから消すことはできないし、変えられないと思っていますが、色んな角度から1つの歴史を見ることが大切なのではないでしょうか?
ウィキペディアを読んでいると疑問点が湧いてきませんか?年貢を納めに行くような人たちは絶対一般人ではないでしょう?そういう人たちはボディーガードがついているような官吏だったと思うのです。そのような人々が66人もいて、なぜたった2人の漢人(客家人かもしれないと言われています)の言うことを聞き、やられっぱなしだったのか。

そして、その後高士佛の人々に出会い、ごはんなどのもてなしを受けたのに、怖くなって逃げたというのも疑問がわきます。というのも、原住民は誰でももてなすことはないからです。友人と思わない限りもてなすことはしません。しかも、ローバー号事件で「南岬之盟」を結びましたが、その内容は「赤旗を上げれば、船難だという意味。殺さなければその対価を渡す」というものでした。例え友人だと思っていなくても、遭難者たち66人をもてなし送り返せば、十分な見返りが得られたはずだと思うのです。

そして、遭難者たちが怖くなって逃げたというのも謎が残ります。普通なら来た道を戻ると思うのに、山の奥へ奥へと逃げていったというのもなぜなのでしょうか?2~3人ずつ順番に逃げていったとも言われていますが、それならばなぜ66人中54人が同じ場所で殺されたのでしょうか?多くの人を追って殺そうとするならば、見つけた場所で殺しながら攻めこみませんか?一か所に集まっているというのも理解しがたいのです。
そういったことから、やはり日本軍は大きな野心があったのだと思うのです。なぜなら「土牛界線」の外側なら清は関知してこないからです。それなら自分たちで収めてやろうという思いもあったのではないかと勘繰ってしまいます。その証拠に、牡丹社事件が終結しても、日本軍は撤退する気配はなく、神社などを作りだしました。日本人が撤退しない様子を見た清があわてて恆春古城を作ったくらいです。

ウィキペディアに書かれていることは助かった12人の宮古島の人々が伝えたことに基づいています。でも、原住民は文字がなく口で伝えていくのみです。しかも、神社について知っている人もあまり語ろうとはしません。この頃のことを話せば、捕まると思っていたからです。

雅妲嵐(ヤダン)さんが忖度一切なく語ってくれた話を聞いて、どんなことも一方的な見方をするのではなく、様々な角度から物事を考える大切さを胸に刻みたいと思いました。
現在、高士集落のツーリストインフォーメンションセンターは高士野牡丹神社公園から下ったところにあります。 現在、高士集落のツーリストインフォーメンションセンターは高士野牡丹神社公園から下ったところにあります。 現在、高士集落のツーリストインフォーメンションセンターは高士野牡丹神社公園から下ったところにあります。

現在、高士集落のツーリストインフォーメンションセンターは高士野牡丹神社公園から下ったところにあります。

保存状態がとてもいい「恆春古城」はパワースポットだった!

南門

南門

牡丹社事件発生後の1874年(同治13年)12月、清の朝廷は沈葆楨を瑯嶠地区に派遣し、台湾での外交交渉をスタートさせました。瑯嶠地区はとても温かい気候だということに気いた彼は、皇帝に瑯嶠地区を恆春と改名し、「猴洞山」に城を築くように上奏しました。恆春城の東門の扁額(額)には清光緒元(1875年)の秋と書かれています。これは1875年10月から城作りに着手したからなんですね。

風水に造詣が深い当時の文官である劉璈がこの場所を選びました。というのも、建物を建てる時には、肘を掛けながら椅子に座って心地よい場所がいいと言われていて、ここはそれを完璧に満たしているからです。「猴洞山」に建てれば、玄武と言われる北側の「三臺山」にもたれ、左手にあたる東側の青龍には「龍鑾山」、右手に当たる西側の白虎には虎頭山があります。仕事をするための机は前方南側(朱雀)にある西屏山があるというわけ。しかも西屏山には馬鞍山があって、筆も置けるようになっていたといいます。
では、ここで城の構造などを見ていきましょう!城の門は「城門空」と呼ばれる下が空洞になっていて、上に建城樓が作られている「城門樓」です。恆春城の主要な建材は下部が花崗岩、上部は閩南磚、城樓には福建省の杉の木が使われていたのですが、これら3種の建材のすべてが唐山から輸送されてきました。

この時代、セメントはなかったですし、何を使って花崗岩と閩南磚を接着したと思いますか?なんと、1つはもち米糊(秫米糊)、もうひとつがサトウキビ糊(烏糖漿)、そして最後のひとつが牡蠣の殻(蠣殼灰/蚵仔殼)。この3つを混ぜ合わせると粘度が高くなるんです。今でも、比較的高いところでは元々使用されていたこの3in1ともいえる接着剤が見られます。(残念ながら下方はコンクリートで補強されていますが……)。
城門座には恆春半島東海岸にある砂岩の礫石(表面の風化した石)、咾咕石(珊瑚礁岩)など、台湾の石材も使われています

城門座には恆春半島東海岸にある砂岩の礫石(表面の風化した石)、咾咕石(珊瑚礁岩)など、台湾の石材も使われています

写真では少し見えにくいですが、上部の櫓(やぐら)についても紹介します。櫓には女兒牆(背の低い壁)があり、その上に15個の雉堞(敵から身を隠すための壁)が並べられています。雉堞上の小さな四角い穴は「窺孔」といい、ここから敵がどこにいるかを覗き見するためのものです。雉堞と雉堞の間から、槍を射ったり、銃で攻撃する場所で射口と呼ばれています。
恆春古城は4つの城門と城壁がほとんど残されています。これは清代に造られた縣城としてかなり珍しく、貴重です。今回ナビが訪れたのは南門だけですが、映画「海角七號」に出てきた西門や櫓にも登ることができる東門など、すべてを回ることをオススメしますよ!
南門の近くを歩いていると、地元の方とのふれあいも楽しめました! 南門の近くを歩いていると、地元の方とのふれあいも楽しめました! 南門の近くを歩いていると、地元の方とのふれあいも楽しめました!

南門の近くを歩いていると、地元の方とのふれあいも楽しめました!

傀儡花の舞台を巡ったことにより、1つの歴史なのに、立場によって事実や思いは異なるのだなということを強く感じました。そして、だからこそ考えや言葉の違う人を思いやり、理解を深めることの大切さを痛感。台湾と日本の歴史とともに生き方も色々考えさせられるいい旅になったと思います!

以上、台北ナビがお届けしました。

上記の記事は取材時点の情報を元に作成しています。スポット(お店)の都合や現地事情により、現在とは記事の内容が異なる可能性がありますので、ご了承ください。

記事登録日:2020-05-25

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