台湾でありながら、ちょっと異なる空気が流れる・・・すぐそこに中国のアモイが見える金門県へ飛行機で50分、行ってきました!
こんにちは、台北ナビです。台湾でありながら、外国へ行くような気分。実際金門は台湾といっても、海岸からは肉眼でくっきりと中国福建省の街、廈門(アモイ)が望めるところ。聞けば、金門の人たちの多くはアモイで不動産を買っているそうな。海の向こうに高層ビルが立ち並んでいるのがはっきり見えます!すぐそこが中国大陸!今でこそ「小三通」と言って、行き来が自由になりましたが、その昔は馬祖と並び非常に緊迫した地帯でした。くじ引きで金門や馬祖の兵役に就くことになった息子を持つ親は泣いたそうです。数奇な運命をもった過去を背負いつつ、台湾一福利が行き届き、お金持ちだと言われるようになった金門。かなり興味深いところでありました。
飛行機は満席
さて、10:05の立榮航空で金門へ向かいます。旧正月でもないのに、金門行きは普段でもかなり混みます。というのは、金門を基点に中国へ行くほうが香港周りより早く、直行便よりも安くつくからです。台北から金門までは50分、金門からアモイまでは船で30分。福建省近辺へ行きたいのなら断然このルートに限りますね。機内サービスは、紙おしぼりと水或いはお茶のみ。眼下にのどかな風景が広がってきたなあと思ったら、さあ、もう着きました!
鄭成功の像の向こうにはアモイが!
金門の歴史
1949年、中国内戦も終盤にさしかかった頃、金門島で激戦がありました。当時の国民政府はこの島を死守。1958年になって、国民政府が支配していた島々に対して、中国大陸側は攻撃を行いました。多くの島が大陸側の島になりましたが、金門島と馬祖島だけは、国民政府が守り抜いたのです。砲撃は1978年まで続き、後の米中国交樹立でやっと中止となりました。その後も、金門と馬祖は、国民政府の最前線として、一般の観光客が足を踏み入れることはできませんでした。
1992年になって、台湾国民は国内ビザなしで金門への訪問が可能になりました。また、1994年、外国人も立ち入りができるようになったのです。
2001年には、金門島の住民に限り、大陸側との通信・通商・通航(小三通)が解禁され、翌年の2002年には、福建省にいる台湾人ビジネスマンやその家族にも、小三通が認められ、金門島経由の台北とアモイを結ぶルートの重要度が増しました。大陸側からも福建省の住民などに限り、金門島への訪問を認めるようになったのです。
こういうわけで、金門は、昔は内戦の最前線、今は大陸と台湾を繋ぐ重要な接点になっているのです。
82攄点
ナビたち一行は、2009年に一般開放となった「海龍部隊」(蛙人)、いわゆる海軍の先鋭部隊の基地を見に行きました。彼らが訓練している砂浜はすぐそこです。今でも地雷が埋まる海岸の反対側ですが、今は海水浴場として開放されています。
基地は8:00~17:00の間は一般開放をしています。
さて、兵士には階級がありますが、蛙人は特別。すべての人に一目置かれる存在で、台湾の海のグリーンベレーとも言えます。蛙人の中にもまたランクがあり1部隊というのは精鋭中の精鋭。スライドで訓練風景を見た後は、内部を見学しました。
1960年代から70年代にかけての最も緊迫した時期、金門には実に10万人を越える兵士たちがいました。今ではその10分の1にも満たない人数となり、蛙人たちの数もかなり減り、昔ほど精鋭ではなくなったと言われます。これも平和になってきた証拠なのかもしれません。彼らは毎年「國慶節」の時、総統府前でパフォーマンスを披露し、誰もがその機敏性や統一性に目が釘付けになります。
海が広がります
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こちらは海水浴場
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入口
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赤い三角は今でも地雷がある場所
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お昼を食べました
レストラン横は古い家屋の民宿
金門は農産物の生産がほとんど不可能で、口にするもののほとんどが台湾本土から運ばれてきていました。それでも近年、野菜はかろうじてキャベツや白菜、地瓜(サツマイモ)菜、芋頭(タロ芋)などが収穫できるようになりましたが、果物はほぼ皆無。やっとドラゴンフルーツが少しずつ出回るようになったとか。そのため、金門の人たちにとって、果物の部類に入るものはすべて高級食材なのです。ここ「湶民」レストランは、土地の人たちに果物を満喫してもらうフルーツ料理レストラン。ナビたちも入って食べてみることにしました。
後豊港洪旭故居
金門は昔から貿易の拠点でもあったことから、物資が豊富で、しかも多くの知識人を輩出してきました。科挙試験合格者にも金門出身者が名を連ねました。洪旭は、台南にも祠がある鄭成功(1624~1662)に多くの資金援助をした人物で、中秋節のお祭り「博餅」の生みの親でもあります。明朝末期、この地で生まれた洪旭は、現在直系が28代目。周辺に住む人たちも全て「洪」という苗字です。同じ苗字の家族が、小さな村を形成しているのが金門の特徴でもあり、ここに身内の結束力の固さと外部の人には警戒心を持ちがちな金門人の性格の所以があると思われます。
洪さんに案内されて、中に入りましょう!
823胞戦で、洪旭の生家跡は破壊されました。1958年に起こった中国大陸からの砲撃では、実に474910発もの世界史の残る砲弾が金門に打ち込まれました。
はさみが2つは平安を表します、一般の家屋では1つだけ
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チマキは試験合格の願いが込められた供物です
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金門では、2010年、専科学校が大学に昇格、観光や閔南建築などが学べるユニークな学部を持つ金門大学が設立しました。
延平郡王祠
鄭成功の祠ですが、台南にもありますね。彼は福建省安平の出身、最初に足を踏み入れた台湾の地は、ここ金門でした。ここには鄭成功の祖父母の墓もあります。広々とした敷地の中でゆっくり散歩ができます。
海の方を望むと小さな島と鄭成功の銅像が見えました。その昔台湾のハンセン病者は、この島へ連れて来られたそうです。そのため、この小さな島の名前は麻瘋(ハンセン病のこと)島。中国大陸に近い島なので、国民党軍はやがて彼らを保護した後、前線基地として利用しました。満潮時は島への道が海水に覆われてしまうので渡れません。ナビたちはちょうど引き潮の時間を見計らって渡ることができました。バイクに乗って島へ渡る人たちもいて、多くはおばちゃんたち。何のためかというと、この時間帯に島の後方に回って、牡蠣の収穫をするから。牡蠣は冬場の方が肉も厚くなって旨味も増すのですが、夏場もかなりの量が獲れます。また、牡蠣養殖だけでなく、大自然の中には魚やカニも見られ、そのため、近くに住む人たちも散歩がてら、晩ご飯のおかずを探しに来ていました。
家族連れの姿も
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バケツにはハマグリと大きなカニが入っていました
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牡蠣の養殖
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カニがいっぱい!
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島へ歩いて渡ってみました
この島では、冬場は特にバードウォチングが盛んに行われます。肉眼でも見たことのない数種類の鳥たちを発見することができました!ほんとにビックリ。鳥の名前が知りたくなったら…バードウォッチングに足を突っ込むきっかけになるかもしれません。
中国大陸の方向を向いている(蒋介石元総統もそうだと思い出しました…)鄭成功の銅像のふもとに降りると、カブトガニがたくさんいました。日本だとかなり珍しいですよね!30年経てば、博物館で見られるような大きな殻を持つカブトガニに成長します。ここでは小さくモジモジ歩いてるのをいくつも発見しました。泥に紛れていて見つけるのは結構大変、動くとわかります。ナビたち大人数人が、発見ごっこにしばし明け暮れました。抜け殻もありました!
島を反対側から見上げました
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ほら、見て~!殻発見!
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鄭成功の銅像、中国を向いています
牡蠣の養殖地の向こうにアモイが見えます
金門中秋博状元餅
さて、本日ナビたちのメインイベント!今年は9月8日から中秋節の22日にかけて行われる金門のお祭り「中秋博状元餅」の会場へやってきました。300年の歴史の歴史をもつというこのお祭りの起こりは、先ほど訪れた「洪旭」にさかのぼります。鄭成功の兵士たちの心を落ち着かせ、故郷への情を持たせるため、中秋節の当日に、現在も続いているこのお祭りを行ったのです。
金門の土地は貧弱で生産できるものもなかったため、昔から多くの人が科挙試験に挑戦し、生活の向上と改善に努めてきました。科挙には。状元、榜眼、探花、進士、挙人、秀才と6つの階級があります。お餅にもこれらの名がつけられました。状元餅は3.6キロ。これで状元餅1個、平分餅2個、三紅餅4個、四進餅8個、二挙餅16個、一秀餅32個、合計63個分が作られます。
ビルの屋上から撮ってみました!
遊び方
ルールはいたって簡単。各テーブルには63個のお餅があります。そして、6個のサイコロを大きなお皿の中に投げます。4の数字が一つ出ると一秀、一番小さな月餅をもらえます。次は4が2個、一秀餅より大きい一個の二挙餅がもらえます。同じ数字が4つ出たら四進餅、1から6の数字が全部出れば平分餅。5つ同じのが出る或いは4が4つ出たら状元餅がもらえます。各テーブルで状元餅を得た人は、時間が来るまで他の人の挑戦を受け、最後に状元餅を得た人がテーブルの代表として、決勝戦に出場します。今の時代、賞品は車やバイク、家電・・・。にぎやかな司会者の声に会場は盛り上がり、ナビたちも順番にサイコロを投げました。3周め、ナビに4つの四が出ました!この状元餅は君のだと言われ、その後は同じテーブルの人がナビに挑戦。そして、最後までナビを抜く人は出なくて、大きな状元餅を持って帰ることになりました。やった~!今年はいいことあるかも!
63個、あるはず!
大人も子供も一緒になって遊べます!
金門の民宿
民宿内には、家主の先祖も祭られていました
金門には国家公園の管理の下、民宿が100軒近くあります。台湾の他の地方の民宿とは、その姿や運営方式が全く異なります。
2005年、国家公園は民宿に選ばれた古い家屋の家主との交渉の後、改装費を全額請け負うことになりました。完成後は一般公募から管理人を募り、収入の一部は国家公園へ、その他は管理人の収入と定めました。
ナビたちが泊まったのは、650年の歴史を持つ珠山聚落の「珠山将軍第」という79番目の民宿。管理人の黄さんは向かいの「慢漫民宿」の管理もしています。管理人さんが一緒に住んでいない場合は、近くに住んでいます。明日の朝7:30に朝ごはんを持ってくるからね。そう言って黄さんは、自宅へ帰っていきました。
何時間でも散歩をしていたくなります
台湾本土にはない民宿のよさ、金門に遊びに来てみませんか?
~金門Part2~に続く