台湾で活躍する日本人⑩『北村豊晴』インタビュー

中国語と映画制作を学んで俳優デビュー。コツコツと実績を積み、今夏には初監督を務めた映画「愛你一萬年」(ヴィック・チョウ主演)の公開も決定!

こんにちは、饒波貴子です。ご好評いただいています、インタビュー企画「台湾で活躍する日本人」ですが、10回目の今回は「北村豊晴さん」にご登場願いました。アジアでの活動を目標に、1997年に台湾の地を踏んだ北村さんは、中国語と映画制作を学んで俳優デビュー。コツコツと実績を積み、今夏には初監督を務めた映画「愛你一萬年」(ヴィック・チョウ主演)の公開も決まりました!高校卒業後、故郷・滋賀県を出て大阪で劇団員や落語家を目指し、北京で語学留学の経験もある北村さんの人生は、ドラマチックでひたすらポジティブ。温かな人柄が伝わってくる、関西弁も素敵です。“台湾芸能界に於ける、日本人のパイオニア”とも言える北村さんの、過去と現在、そしてこれからの展望をたっぷりと伺ってきました。

インタビュー開始

Q:念願の初監督映画、「愛你一萬年」の完成おめでとうございます!どんな作品ですか?

念願だった監督作品が出来上がって、本当に嬉しいです。この映画、実は2007年にショートフィルで撮っていて、脚本はありました。その時は同級生3人で作ったオムニバス映画の1つだったんですが、大学院の院長が見てくださって、「長編にできる作品だから、脚本を書きなさい」って勧めてくれたんですよ。それで1年位かけて話をふくらませて、仕上げました。簡単に言うと、“日本人の女の子と台湾人の男の子が、3か月限定の恋愛をする”ストーリーのラブコメディ。故郷・滋賀県と台湾を舞台にすることにこだわり、ちょっとだけ上海も出てきます。
 Q:主演がアジアのアイドル、F4の“ヴィック・チョウ(周渝民/仔仔)”さん!ものすごい監督デビュー作になりましたね。

まさか仔仔が本当に出てくれるなんて、思っていませんでしたよ。予算的にもスケジュール的にもね。だって、クランクイン1か月位前にオファーしたんですから。OKの返事をもらったのは、1か月切ってました。ビックリするでしょ~(笑)。仔仔のスケジュールがちょうど空いていて、タイミングがぴたっと合ったんですよね。ちょっとズレたらあかんかったので、ラッキーとしか言いようがない。撮影は延ばさないと約束しましたし、仔仔ありきで脚本を書き直しましたよ。だからいろんな物が、見切り発車という状態でスタートしました。ロケ地なんかも(笑)。映画を撮る時は、キャストとスタッフ一同が船に乗って「出発だ~!」って雰囲気で始めるんですが、本当に船に乗って航海に出たという感覚でしたね(笑)。
Q:ヴィックはどんな方ですか?

素晴らしい俳優さん!台湾ロックのいけてない歌手を演じてもらいましたが、すぐ理解するので、演技はほぼ任せっぱなし。笑いを取る所も真剣に演じてくれて、めっちゃコメディーしてくれました。今までには見せていなかった、新しい顔が見られると思います。確実に期待してもらっていいですね。ヒゲをはやして、カッコいいですよ~。監督と役者の関係というのは、すごく近いか距離を置くかの両極端だと思うんです。仔仔とは距離がありつつ、でも離れすぎず…という感じでしたね。現場では奥に座って、声をかけられない雰囲気。雑談するよりも、その方が心地いいんでしょうね。打ち合わせをした後は、1人静かに役を作る感じでしたよ。仔仔は独特の存在感があると感じましたし、とにかくいい仕事したな~って、映像を見ていて思います。そういえば、僕の両親の店「北村家 くるみ小料理屋」に、仔仔がごはん食べに来てくれたんですよ。撮影中に行くと言ってくれたんですが、その約束を守ってくれたんです。すごく律義で優しい方ですね。「愛你一萬年」は、仔仔ありきで面白く感動できて、ちょっぴりせつない映画。僕の狙い通りの作品が完成しました。ほんま、いいですよ~。台湾では、8月6日に公開決定です!

映画は子供の時から、ではないんです

Q:北村さん監督で、ヴィック主演。ぜひ応援したい映画ですね。故郷・滋賀のロケはいかがでしたか?
NHKテレビを始め、県内のメディア全てが取材に来てくださって、温かく迎えてくれました。今はもう両親も台湾にいるので、滋賀にいるのは兄夫婦だけなんですよ。 
 
Q:忍者で有名な甲賀市出身ですが、どんな所ですか?

めちゃめちゃ…ビックリするくらい田舎です。僕の家は、甲賀の中では一番栄えている水口町にあるんですけど、田んぼに囲まれていてやっぱり田舎。稲刈りの後ゴルフボールを置いて、全力でクラブで打っても、誰にも迷惑はかからない(笑)。めちゃめちゃでかくて広い所ですね、今も変わりません。ヘルメットをかぶって通学しているのどかな風景は、都会の方には興味深いでしょうね。 
Q:子供の頃は、どんな風に過ごしていましたか?

小・中・高、ず~っと野球をやっていました。その間、ほとんど丸刈り(笑)。何の疑いもなく、“野球をやるもんや”と思って、とにかく続けていましたね。今思うと、なんでだろう(笑)!?遊ぶ所のない田舎だったからかな。女の子に対しても奥手でね。中学3年生の頃から2年間付き合った女の子がいたんですけど、手をつないだことさえなかった。帰り道一緒だったり、電話で話していただけ。かわいいもんですよ。その人と高校3年生の時にキスしたんですけど、なんとそれは、王様ゲームで(笑)。もう別れた後でしたね。その頃から遊びを覚え始めましたが、野球をしていた頃は硬派で、自我に目覚めたのが遅かったと思います。高校3年生の頃、自分は何がしたいのか考え始めましたが、大学進学は浮かばなかった。当時、筧利夫さんやベンガルさんなど、劇団の俳優さんがドラマに出て注目されて、強烈な個性があっていいな~と憧れるようになりました。そういう人になりたいな~と思っちゃったんですよね。
Q:それまでは、芸能界に興味はなかったんですか?

学芸会とか文化祭とか自分が出るのは好きでしたけど、テレビや映画には全く興味がありませんでした。高校の進路相談の時先生に「しっかり考えろ」と言われて、「就職しません。劇団員になります」と答えたんですけど、「どこの劇団だ?」と聞かれ、どこに行くんだろうと…初めて考えました(笑)。それで劇団を探して大阪に行ったのが18歳で、1人で初めて電車に乗りました。それまでは自転車やバイク中心で、電車乗るのは友達とワイワイしながらでしたからね。いざ1人で、となると“なんにもできへんやん”と戸惑ってしまいました。でも慣れてきた頃、僕の活動エリアがど~んと広がりました。遅咲きですね(笑)。 
Q:でも一旦開いたら、展開が早そうです。

そうなんです(笑)。ポンと広がったのをきっかけに、いろんな所へ行きましたよ。大阪の劇団に所属して、タイで初舞台を経験したんですよ。国際的な劇団という訳ではなく(笑)、単にタイ語がしゃべれる人がいたから。電気も通ってないような田舎で芝居をやって、村人が300人くらい集まって大盛況。とても楽しかったですし、いろんな意味でカルチャーショックでした。そのタイ語をしゃべれる人は普段はさえないけれど、カッコよく見えたんですよね~。彼が台詞を言う度にどっかんどっかん笑いが起きて、このブサイクがなんでこんなにいいんだろう、と思いましたね。それで語学を勉強しようと思った訳です。同じタイ語をしゃべってもしょうがないし、英語はダメとわかっていたので、スペイン語か中国語と思ってね。遠いスペインよりも、近い中国かなと。一方で、半年ほどで劇団は合わないとわかり、裏方を続けながらバイトに励みました。20歳までに目標が達成できなかったら、滋賀に帰ろうという思いもあったんですよね。 
Q:落語家を目指していた時期もあったとか?

ありました。劇団員を経験して思ったことは、“絶対に武器が必要だ”ということ。田舎ではおもろい奴だと言われていましたが、大阪では通用しない。それでは辛いので、“落語のできる役者を目指そう!”という思いが芽生えたんですよね。落語だけでは一番になれなくても、芝居ができれば勝負できると思って。それで、笑福亭福笑に弟子入りしました。笑福亭門で言えば、仁鶴、鶴光に次いで3番手。マイナーでしょ(笑)。昔からマイナー志向があって、一番最初に憧れた人が中島らもさん。熱狂的でコアなファンがいて、僕にとってもカリスマ的な存在でした。笑福亭福笑も落語家の中で通のファンが多く、風変わりな人。落語はめっちゃおもろいです。弟子になるのは簡単で、家が狭くて家弟子にはできないけれど、毎日来るな、週3回来いと言われ、行ったら稽古付けてもらいました。そういう師匠は、なかなかいませんよ。半年で4~5つの落語をみっちり教えてくれましたから。でも結局破門されたんですけど、大きな理由は“忘年会の刺身の骨”。師匠は料理好きで自分で魚を下ろすんですが、食べたら骨が刺さったんです。そしたら「ワシの作った刺身に骨はない!お前は帰れ!」と怒鳴られ…冗談だろうと思っていたら、次の日から家に入れてくれなかった。警察を呼ぶと言われた時は、気持ちが冷めましたね。無視されるならいいけれど、変質者扱いされるのかと思うと悲しかった。 結局弟子期間は9か月程度で、次考えないとあかんと思い…行き出したのが図書館。何かあった時の僕は見た物に魅かれる傾向があるんですが、図書館で目に入ったのは「中国留学の本」。「100万円で中国留学!」と書かれてあって、“これだ~!”と思って(笑)。半年あれば楽勝だと考えました。 

そして、台湾へ

Q:100万円作るのは大変なことですよ!

僕はバイトしたらすごく稼げるタイプで、いろいろやったし生活に困ることはなかった。若くて体力あるし、工場でも料理関係でもどこでもOK!ただ途中で女の子にモテ出しちゃって、日本がいいな~って思っちゃって。22歳になっていましたが、離れたくなくなりましたね(笑)。でもそれを断ち切って、行きましたよ、語学留学で北京に!ただ元彼女に未練があって一時帰国をして振られたり…北京に戻っても1年で語学をマスターするなんて無理ってこともわかって。日常会話はできても役者を目指したかったので、最低2年かけないとダメだと気付きました。でももう学費がない。北京で稼ぐのは賃金が安すぎるし、日本に戻って貯めてからまた戻るかなど悩みました。そんな時、同じ宿舎にいた台湾人に、「台湾はいいよ~」と言われて、台湾行きを決めました。今思ったら、そんなんで簡単に決めて行くのかって感じですよね(笑)。1997年の7月のことで、バブルのいい時期でしたね。 
Q:それで、台湾に住もうと決めたのですか?

実は台湾で1年間後、北京に戻ろうと思っていました。日本で通用できる中国語をマスターできると計算しました。それから最初は台湾が嫌いでね。アシスタント役でうっぷんがたまっていたし、市街地に住んでいなかったから通勤が面倒で、女性運もなかった。僕、モテなくなると、その土地が嫌いになります(笑)。だから日本に帰ろうと思っていたんです、意外でしょ。2年目に入って帰国を決めたんですが、その前に中国旅行を計画しました。そしたら台湾人の男性に、「旅行なんて、いつでもできるじゃないか!」と言われたんですよね。彼は僕のことを唯一「北村先生」と呼んでくれる礼儀正しい人で、「あなたはすごい!」といつも誉めてくれたんです。評価してくれる人がいない時期だったんですけどね(笑)。そして「まずは試しに、大学には語学センターがあるから、そこで言葉を学んでみたら」と。そう言われてもう1年頑張ってみようと考えなおしました。「もっと中国語を勉強したら、あなたはこれから何でもできる!」と持ち上げられて、のったんですよね(笑)。その1年は楽しかった! 

やっと今へつながる…

Q:そのアドバイスをくれた男性は、北村さんのキーマンですね。

そうですね。すごい人物です。それからは、朝8時から10時まで授業受けて勉強に励み、幸いにも奨学金をもらえることになったんです。それで夜時間をどか~んと空けようと思って。そこからです、台湾で遊びを覚えたのは。またモテるようになったので、台湾からもう絶対離れないって思いました(笑)。遊びと行ってもカラオケや食事に行く程度ですけどね。夜市に行くのも楽しかったし、その頃初めて台湾を知った、という感覚になりましたよ。前は、遊びに行く機会がありませんでしたから。だんだん言葉もできるようになり、もう日本に帰る理由がなくなった(笑)。 僕はが~っとつかんだありがたい奨学金を、1円たりともも残さず使い切ってやろうと思いました(笑)。それで語学学校には9か月間行って満足したので、次に目指したのは大学進学。大阪時代を思い出し、スペイン語学科に行くことも考えましたが(笑)、結局は台湾芸術大学の映画学科に通うことになったんですね。面接に遅れそうになったり、アピールできる作品がないので止めようかなと思ったんですが“自分自身が作品だ!”という気持ちで面接に出向きました。当時の僕は金髪のドレッドヘアーだったんですが、衣装だと思ってしましま皮パンと下駄を履き、個性を出そうと思ったんです。でもね、2人しか面接に来ていなかった(笑)。もう1人はイギリス人のまじめな女性で作品として写真を提出し、僕は「自分が作品です」って訴える声が小さくなってしまった(笑)。でも無事に合格しました。 それからですね、映画を見始めたのは。黒澤明監督や小津安二郎監督の作品を見て、自分の好きな路線がだんだんわかってきました。台湾の巨匠ツァイ・ミンリャン監督や、アメリカのジム・ジャームッシュ監督の作品にはまりましたね。そして、アート寄りで元々好きなお笑い要素を入れるというテーマを決め、映像作品を作っていきました。結構風変わりな作品だったりしますけどね。
 
Q:やっと映画の話題が出てきましたね(笑)。

僕の人生、映画は後付けなんですよ。ショッキングだったのは、ツァイ・ミンリャン監督の「愛情萬歳」を見た時でしたね。“こんなもんが映画として成り立つのか!すごすぎる!”と、ある意味カルチャーショックで、“こんなもん俺でもできるわ~”っても思いました(笑)。実際ツァイ監督がやっていることはとても難しいことで、僕にはできませんけどね。でも、映画に興味を持つきっかけを与えてくれた作品でした。 映画学科では5~6人のチームを組んでひたすら映画を作っていたんですが、僕は監督しかしなかった。そして4本連続で撮った頃休もうと思い、商業映画に関わるチャンスがあって俳優デビューしました。呉米森(ウー・ミーセン)監督の『給我一隻猫』という台湾映画で、主演は武田真治さん。正直、商業映画のレベルの高さに愕然としましたね。自主制作の作品を本格的に作っているつもりでしたが、クオリティに差がありすぎた。そのショックで制作は休もうと思い、現場に出て役者や通訳として経験を積んでいきました。台湾映画界にいる日本人で何でもやっているのは僕くらいでしたし、ウー監督の周りにはたくさんの優秀なスタッフがいて、いろんな作品で声をかけてくれたんですよね。そうしている内に、人脈が広がっていきました。忘れられないのは、当時『給我一隻猫』の助監督をやっていた許肇任(シュウ・ジャオレン)監督の励まし。日本の大スター武田真治さんとの共演で緊張してしまった僕を、「知名度では負けるが、実力は負けていないぞ、国語がしゃべれるから、彼に勝っているぞ」と言われ、余裕が出てきました。相手が誰でも食ってやる的な感覚になり、“負けへんぞ!”ってノリになれたんですよね。
Q:「愛情合約」はマイク・ハーもアリエル・リンも、まだ新人の頃でしたね。

監督やスタッフが環境や状況をストーリーと同じように追い込み、整えてくれていたんですよね。チームワークがとても良くて、クランクアップの時にはみんなで大泣きしました。でも実は…ギャラの支払いなどでトラブルが起こり、辛いこともあったんですが、みんなで励まし合いながら続けていった。監督に文句言うヤツは1人もいなかったですね。当時は確かに現場に勢いがあり、それがドラマの映像に現れていると思います。遅れましたが、ギャラももらえましたしね。マイク・ハーは、僕はやんちゃな弟だという感覚ですが、兄貴分だとは思われていないだろうな~(笑)。完全にからかわれていますね。かなりの時間を一緒に過ごしましたが、気立てのいい男の子ですね。 
Q:NHK-BSで放送された、「ザ・ホスピタル」にも出演されたんですよね。

実はカットされました。序曲的なシーンで、酔っぱらっている金髪の若者を演じました。中国語で汚い言葉を叫ぶので、蔡岳勳(ツァイ・ユエシュン) 監督には「こんな汚い言葉を言ったら、放送されないでしょう」って訴えたんです。でも監督は気にしていなくて(笑)、最後には血だらけ中指立てて気絶。こんなんじゃ~放送されないでしょう(笑)。幻のシーンですが、DVDでは見られるようです。 

そして、今

Q:話題を変えて、台北ナビをご覧になっているみなさんに、台湾のお薦め場所を教えてください。
12年台北にいますが、住む場所も活動エリアもすべて東區という感じですね。お薦めはイタリアンレストランの「COSI O COSI」。カフェは大安路の「モチョモチョ」や、延吉街の「4AM」によく行きました。それから、「明月湯包」も最近大好きですね。小籠包と鍋貼(焼き餃子)は最高にうまい!今までは鼎泰豊(ディンタイフォン)が好きでしたが、それを超えました。 あまり気のきいた場所が言えなくてすみませんが…前はよく嫁と子供と「大潤發」というディスカウントストアに行ってました。遊園地に行く気分の家族サービスでね。あ、そうだ!今のお気に入りは、なんと言っても「北村家 くるみ小料理屋」!両親が経営している日本料理屋です。
Q:台湾に移住して店を持ち、中国語を習っているご両親は行動的でパワーがありますね!

中国語学校に通う予定だったんですが登校するだけで時間がかかるので、個人レッスンでお店に来てくれる先生にお願いしました。消防署員の兄は故郷の滋賀にいますが、兄のおかげで僕は台湾に来られて、いろんなチャンスに出会うことができました。ありがたい存在です。 
Q:映画監督になるという夢を、台湾でかなえた北村さんも偉大な人物です!

ずっと狙ってきた、ってこともありますよね。転がり続けて行きついた所なので、不思議な感じがしますよ。どこかで何かが抜けていたら、ここにはたどり着けなかったのかな…なんて思いますし。キーポイントになる所で誰かに会い、ここにたどりつきました。これからはどこに行くのか…わかりませんね。 でも、次の目標は実は陶芸家(笑)。映画監督としていつまでも撮れる訳ではないし、あまり貯蓄もできないだろうから、常に働かなあかんな~と思っています。陶芸家は指が動けばできるでしょ。1壺10万円…幸せになれる壺ですよって言ってね(笑)。ヒット映画のタイトルを、壺に書くのもいいかもね(笑)。まだまだ先、60~70歳になってからですけど、次の目標を考えた時、陶芸家っていいなと思ってね。 
Q:まだまだ監督や俳優として頑張ってください!最後に今後の予定を教えてください。

役者としては、客演やショートフィルムとか短い時間でいろんな作品に出る感じが好きなので、続けていきたいすね。田口トモロヲさんみたいに、脇役で常にいい所で出ているというような…ああいう人になりたい。でも、監督作品はエンターテーメントでいきます。すべての人に見てほしいです。これからも、王道と脇道を歩いていきます。そして、監督のオファーがいくつか来ているので、これから準備します。華流アイドルに出てもらう映画もいいですね。始めの数本は、コメディにこだわりますよ。台湾にはコテコテのお笑いがまだないから、“北村の映画は笑える!”と認めてもらいたいですね。  
北村豊晴さんのロングインタビュー、いかがでしたか? どんなことも、面白おかしく語ってくださる北村さんですので、インタビュー中はずっと大爆笑。そしてこれまでに何人もの人から、「北村さんにお世話になった」、「本当に素晴らしい方です」と聞いていましたが、なるほどと実感。人を惹きつける優しさと魅力を持っている方でした。そして北村さんのお話を聞くと、「台湾にはチャンスがあり、夢をかなえられる場所!」と励まされ、幸せ気分になりました。
今後ますますのご活躍、期待しています! 

上記の記事は取材時点の情報を元に作成しています。スポット(お店)の都合や現地事情により、現在とは記事の内容が異なる可能性がありますので、ご了承ください。

記事登録日:2010-06-25

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