台湾各地の城隍廟の中で芸術性が一番高いのが嘉義市の廟、交趾陶アートと日本の和歌は必見!
こんにちは、台北ナビです。
嘉義城隍廟の歴史は清朝の康熙帝の時代である1715年、当時の嘉義が諸羅と呼ばれていた時代までさかのぼります。県知事であった周鐘瑄氏の寄付で新建され、その後雍正帝と乾隆帝の時代に修建されました。
嘉義市城隍廟の祭典は、日本統治時代の1908年(明治41年)から、盛大に行われ始めます。市民を多く参加させることで、経済の発展の一端を担わせる目的もありました。地方政府長官として、祭典の正、副委員長は日本人が務め、「官廟」の水準を維持することに貢献しました。
1922年(大正11年)に増築し、廟の形はほぼ完成したものになりましたが、1936年(昭和11年)、大地震によって崩壊します。当時、伊藤栄三氏が寄付をし、中国泉州から呼び寄せた宮大工の王錦木氏が改築を手がけています。1937年には皇民化運動によって、台湾国内の多くの廟が破壊されましたが、嘉義の城隍廟は、日本と良好関係を保っていたので破壊から免れました。
1940年に完成した建物は、伝統的な建築様式を貫いています。廟内には、交趾焼でかたどられた対の額の中に和歌があります。
「山は裂け海はめせらむ 世なりとも 君に二心 わがあらめやも」(源実朝)、「敷島の大和心を 人間はば 朝日ににほう 山さくら花」(本居宣長)。こちらを訪れた際には、ぜひ着目してみてください。
一般に一階までしか見ないのですが、内部は6階まであり、階によって神様も異なります。
1階:正殿 城隍爺 媽祖殿 主祀:媽祖娘娘、右側:城隍夫人、左側:註生娘娘
左右両側:十八司爺 太歲殿 主祀:斗姥星君、太歲星君
2階:觀音佛祖殿 主祀:觀音佛祖、彌勒佛 左右両側:十八羅漢
3階:水仙宮殿 主祀:水仙尊王大禹
文昌殿 主祀:文昌帝君 姻緣殿 主祀:大道公、月下老人
4階:五恩主殿 主祀:五恩主公(關羽、呂洞賓、張單、王靈官、岳飛)
5階:三清殿 主祀:三清道祖(玉清元始天尊、上清靈寶天尊、太清道德天尊)
6階:凌霄寶殿 主祀:玉皇大帝、右側:南斗星君、左側:北斗星君
建築の特徴
建築方面遺は、その時代の名匠の手によるものが多くあり、これだけでも博物館クラスになりそうです。
文物の特徴
300年以上の歴史を誇る嘉義城隍廟は、建物だけでなく、文物も歴史的価値のあるものがそこかしこに見られます。現在全部で786件あるそうです。必見は、乾隆帝の時代である1765年、当時の諸羅(嘉義)の張所受知事による城隍廟の重建を記念する碑である「重建城隍廟碑」。
「重建城隍廟碑」
歴史に翻弄され…
日本が台湾に権力を誇示したものが今も廟内には残っています。
地元の案内ボランティアの方に、廟には左右のどちらが上位、というのがあるかどうか聞いたら、「廟側からすると左だよ」との答え。つまり富士山が新高山(玉山)より上、ということがわかりました。富士山と新高山は、主座の左右にある台の下、すぐには分からないところに隠されています。
参拝者から見たら右側で、正殿出口横の像の台の下を覗いてください
|
|
富士山が見えます
|
こちらは、参拝者から観たら左側の正殿出口横。下を覗くと…
|
|
新高山(玉山)がありました
|
日本統治時代ですが、城隍廟は官廟として建設されたため、実は民衆とは距離感がありました。官中心で祭事活動をしていましたが、戦後は官の力が弱まったこともあり、民間の力によって城隍廟は、拡張されていきます。廟の役目は国と地元、民衆の安全を守るようになり、官の祭事活動から民間の賑やかなお祭りに代わっていきました。やがて、城隍廟の祭典は地元の経済とも密接な関係を持つようになり、今では、社会の福利や文化活動など民間の一部分も担っています。
以上、台北ナビでした。