台南の鉄板観光スポットをタイムスリップした気分で歩いてみよう~!
こんにちは、台北ナビです。
今回は、“台南のランドマーク”とも言える「赤崁樓」をご紹介します。台南で知らない人はいない!と言うほど、有名すぎる観光スポットですが、よくよく考えてみると、一体今までどんな役割を果たして来た場所なのでしょうか?それを探っていくと、それぞれの建物や石碑に、いろいろな物語がある事がわかりました。
物語は今から300年以上前にさかのぼります。赤崁樓の歴史の旅へ早速出かけましょう!
オランダ時代から現代まで…いろいろな文化が交錯する場所
歴史の旅の出発点となる入り口ゲートでは、台湾版こま犬がお出迎え!この入り口は50年ほど前、赤崁樓が修築された際に、西側の赤嵌街側から現在の民族路沿いに移されたそうです。
このゲートをくぐると、赤崁樓いちばんの撮影スポットが!!雨季以外、あまり雨の降ることのない台南の抜けるような青い空と、赤レンガがよく映えます。ここから右手に行くとお土産を売るショップがあり、左手にはドリンクやアイスなどを売っている休憩スポットがあります。
正面から見ると、ひとつに見える建物ですが、実は奥にもうひとつあります。そっくりに見えますが、前方が「海神廟」、そして後方が「文昌閣」といい、建てられた年代も少し異なります。まずは、丸型のアーチをくぐり、この周りを歩いてみましょう。
赤崁樓はじめて物語!オランダ時代から鄭氏政権時代まで
東北側に残された稜堡部分
赤崁樓が建てられたのは、むか~し昔のそのまた昔…1653年のこと。当時は「普羅民庶城(プロヴィンティア城)」と呼ばれ、オランダ人によって造られたことから「赤毛城」とも呼ばれていました。そのころの海岸線は、このあたりまで深く湾入していたため、安平の安平古堡と向き合う形になっていて、互いに政治の中枢を担う役割をしていたそう。城の形は四角形で、その東北側と西南側の2か所に防衛機能を持つための稜堡(外に向かってつき出した部分)を設けた建物でした。
城部分はその後の天災や人災により崩壊してしまいますが、西南側の稜堡は後に海神廟の土台として使われ、東北側の稜堡は現在そのままの形で保存されているので、実際に見学することができます。
西側土台部分には、普羅民庶城のかつての正門も残されています。
発見されたのは東北側の稜堡と同様、日本時代に入ってからで、現在はレンガの壁でふさがれていますが、この奥に100人の軍隊を駐留できたという城内が広がっていたのですね…。ちょっとヒンヤリ、不気味な雰囲気もただよっています。
オランダ軍を降伏させている鄭成功の像
オランダ軍を駆逐した鄭成功による政権時代が始まると、名前は「赤崁樓」に改められます。承天府が設置され役所の役割を果たすようになります。
しかし、それもつかの間…。鄭成功の死後は、承天府は廃止され赤崁樓は火薬や武器の倉庫として使われるようになりました。
ワープできる井戸の逸話海神廟と文昌閣の間には、意味ありげな半円型の井戸があります。「安平古堡」にも同じような井戸がありますが、これは鄭成功に包囲された際、ここから安平へ逃げるための井戸だった…という逸話がずっとありました。
しかーーし!(以下ネタバレ注意)1990年の政府による調査で、そのような通路は見つからなかったという結果が出ています。なんとなく繋がっていてほしかった…。
いろいろなことがあった清朝時代。そして現代へ
赤崁樓にとって激動の時代だった清朝時代。そして現代へ
清朝の時代に入ると、反乱や地震、台風などの被害により、残念ながら赤崁樓の城部分は全壊してしまいます。
残された土台の上に建設された「海神廟」と「文昌閣」、それに西北側にある「蓬壺書院」は、この清朝時代に建てられたもので、中国の楼閣建築の影響を取り入れた雰囲気になっています。細部にまでほどこされた装飾をとくとご覧あれ~!!
海神廟台湾に漂着した日本人が殺されたという牡丹社事件をきっかけに、海神のご加護を受けるため建立されました。現在は、中央に鄭成功の肖像画が飾られ、1944年に行われた大規模な改修工事の様子が展示されています。
後方にある坪型の門には「平穏無事」という意味があり、その上に描かれた長寿と子宝を表すバナナの葉とウサギも縁起物。パチリと記念撮影を忘れずに!
また、キシキシとスリルを感じる木製の階段を上がった2階には、このあたりの移り変わりを説明した図や、船の模型が展示されています。手入れの行き届いた中庭が見渡せるベランダも、気持ちがいいですよ~。
沈受謙直筆の扁額が掛けられています
文昌閣台湾知事であった沈受謙によって、教育振興を目的とし建てられました。2階には、学問の神様とされる魁星爺が祭られています。学問の神様というと、何となく長いひげに優しそうな笑顔…というイメージを勝手に描いていたナビですが、こちらをにらみつける恐ろしい形相に思わずおっ!となってしまいました。右手に筆、そして左手には墨床を持ち、亀の頭を踏みつけた奇妙なポーズは、鬼(お化け)の文字をかたどっているんだそうです。この力強いパワーにあやかって、合格を祈願する人々の願い事の書き札が、すぐそばに掛けられていました。
ここには太平洋戦争のさなかでありながら、献身的に赤崁樓の修復に携わった日本人、羽鳥又男の像も置かれています。彼は、日本統治時代における最後の台南市長でもあった人物です。
敷地に面している部分は裏手になります
蓬壺書院
こちらも文昌閣と時を同じくして、沈受謙によって建てられた書院(教育機関)です。別の場所にあった「引心書院」を移転し名前も改められました。
文昌閣や、講堂、五子祠などを含み、台南で最大規模と呼び声高い書院でありながら、日本統治時代に入ってから起きた地震により倒壊。現在残されているのは、リビングにあたる門廳部分のみです。
龍の子ども「贔屓」にまつわる逸話敷地の中央に座する9枚の石碑は、赤崁樓で一番目を引くものです。この重そうな石碑を背負っているのは9匹の亀…に見えますが実は「贔屓」という龍の子どもなのです。この石碑には良い功績を残した人への文が書かれています。主に当時の皇帝が内容を決めていたそうです。しかも5つ以上の石碑はどうやら貴族以上の身分の人しか与えられないんだとか。清の時代に台湾である反乱が起こり、それを3ヶ月で治めた武将「福康安」を記念して清の乾隆帝が満州文字と漢文の2つを使った文章を刻んだんだそうです。
実はこの贔屓、もとは10匹だったそうなのですが、中国大陸から運ばれる際に誤って一匹落としてしまいます。台南の保安宮に祭られている1匹が、はぐれてしまったその1匹だった…という伝説も残っています。
いろいろなことがあった清朝時代も終焉を迎え、日本統治時代が始まります。そのころになると赤崁樓は、陸軍病院としての役割を果たすようになります。
やがて近年では、たくさんの石碑や文化財を収集する歴史館としても利用されていました。丸型アーチの近くに、ズラリ並ぶコレクションの数々はその時に収集されたものです。
平和でのどかな時間が流れる、中庭にまた戻ってきました!オランダ時代までさかのぼった歴史の旅はいかがだったでしょうか?歴史の上にまた新しい歴史が上塗りされ、現代のカタチにたどり着いたんだな~と実感させらたナビ。
赤崁樓では水曜日から日曜日の毎晩、ライトアップした赤崁樓をバックにコンサートを開催しています。月ごとに決められるスケジュール表は、入り口でもらうことができるので、赤崁樓の昼間とは違う顔も楽しんでみてくださいね。
以上、台北ナビ(岩田優子)がお伝えしました。