摩里莎卡集落Molisaka(花蓮県)

摩里莎卡部落Molisaka

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今でも日本時代の名でよばれるタロコ族のモリサカへ行ってきました

こんにちは、台北ナビです。
台湾では2017年現在、公認されている原住民族は16民族です。今回紹介するタロコ(太魯閣)族は、以前はタイヤル族の支族だとされていましたが、2004年1月14日に12番目の原住民として政府より認可を受けました。
現在タロコ族は台湾東部の花蓮県北部を中心に住んでいます。はるか昔は南投県仁愛郷に居住していましたが、17世紀に人口増加と漢人入植者が増えてきたことで耕地不足が起こり、花蓮方面へ移動し始めました。人口は30620人(2016年7月、原住民族委員会記録)で、5番目に多い原住民族です。父系社会で、世襲の頭目が村落を取りまとめ、農耕、採集、イノシシや水鹿、山羌などの狩猟を中心とした生活を送っています。主な祭典は、10月15日の感謝祭と粟を収穫したことを祝う7月の祖霊祭ですが、現在は感謝祭の方が重視されています。
狩猟方法

狩猟方法

衣装

衣装

機織りをする女性たち。カラー写真なので、数年前のイベントのものです 機織りをする女性たち。カラー写真なので、数年前のイベントのものです

機織りをする女性たち。カラー写真なので、数年前のイベントのものです

タロコ族は、日本統治時代、日本軍に最も激しく抵抗した民族としても知られています。まず1896年に日本軍と原住民の衝突の発端となった新城事件が起こり、1906年には樟脳の伐採権をめぐって最初の移民村を開墾した賀田組との威里事件。そして、1914年、最大で最後の衝突となった太魯閣戦争。太魯閣戦争では、第5代総督であった佐久間左馬太が西拉歐卡﹙Siraoka﹚でタロコ族の襲撃に遭い、30m下の崖に落下。その後は日本へ搬送されたか、戦死したか、諸説あるようなのでここでは書けませんが、当時70代の佐久間総督の勇敢さもタロコ族には語り継がれています。
タロコ族勇士の写真 タロコ族勇士の写真

タロコ族勇士の写真

花蓮縣萬榮鄉

今回紹介するタロコ族の摩里莎卡(モリサカ、Molisaka)集落は、花蓮県南部の萬榮鄉の西にあり、山を背に位置しています。萬榮鄉は地勢の起伏が大きいので気候の差も激しく、平均標高は600m。山間には萬里溪、馬太鞍溪、光復溪の渓流が流れています。
現在の萬榮鄉は、6つの村(西林村、明利村、馬遠村、見晴村、紅葉村、萬榮村)に分かれていますが、原住民の集落は10個あり、住民の半数はタロコ族、南部はブヌン族、セデック族も山に近い一帯に住んでいます。
今回のモリサカ最寄りの台鉄駅「萬榮」

今回のモリサカ最寄りの台鉄駅「萬榮」

駅横の派出所は、日本時代も警察だったと思われます

駅横の派出所は、日本時代も警察だったと思われます

モリサカの名

摩里莎卡(モリサカ、Molisaka)の名の由来は、林業で栄えた林田山(現在は林田山林業文化園區)から来ています。林田山の最初の名は「森坂」。日本語で森が栄えるという意味から来ました。当時の名前がそのまま残っているところは他にもあり、「馬里巴西」(マリバシ、Maribashi)は、モリサカの東にあります。
萬榮鄉のMAP。赤でくくったところがモリサカで、ナビたちが来たところです

萬榮鄉のMAP。赤でくくったところがモリサカで、ナビたちが来たところです

戦後このモリサカという名の発音は保持し、中国語で「摩里沙卡」と書き換えました。林田山は日本時代の三大林場の一つで、東部で最も早く開伐された林場でした。1918年7月、日本人は花蓮に「東台灣木材合資會社」設立。1919年には「花蓮港木材株式會社」として伐採事業を開始。林田山の開発は阿里山や八仙山、太平山よりも早く取りかかったので、1931年には山の木々のほとんどがなくなっていたそうです。それでも林田山の伐採作業は戦後も続けられ、1990年に天然林の伐採が禁止されるまで行われました。また、戦時中の物資が欠乏していた頃は、牛が輕便車を引っ張る方式で材木の運搬が行われていました。現在の「林田山林業文化園區」は、東部台湾の林業開発史を物語っています。

原住民文物館

モリサカのタロコ集落内にある原住民文物館は、2006年に完成しました。内部には、タロコ族とブヌン族の紹介、展示があります。
2階建ての文物館

2階建ての文物館

文物館スタッフのImi Hrusi(王依美)さん、タロコ族は、自分の名が前に来て、後ろは父親の名が付きます

文物館スタッフのImi Hrusi(王依美)さん、タロコ族は、自分の名が前に来て、後ろは父親の名が付きます

文物館前の風景

文物館前の風景

各所の建物の壁面には

各所の建物の壁面には

タロコ族の彫刻などもあります

タロコ族の彫刻などもあります

文物館内部

文物館内部

写真はブヌン族も展示されています。スタッフの話しによると年代が間違っているものも若干ありだそうです 写真はブヌン族も展示されています。スタッフの話しによると年代が間違っているものも若干ありだそうです 写真はブヌン族も展示されています。スタッフの話しによると年代が間違っているものも若干ありだそうです

写真はブヌン族も展示されています。スタッフの話しによると年代が間違っているものも若干ありだそうです

タロコ族のUkah Walisさん

タロコ族のUkah Walisさん

現在近くに住む85歳のUkah Walis(蔡阿光)さん。林田山の林場で生まれ、6歳の時に太魯閣峡谷の天祥の集落へ引っ越し、日本時代の小学校(当時は公学校)は、毎日1時間歩いて通い、全校で20数名在籍していたとのこと。当時天祥には大小約100個のタロコ族の集落があったのですが、Ukah Walisさんが住んでいた集落名は、カラッパオだそうです。
日本時代の思い出を語ってくれました。特に記憶に残っているのは、自分たちが住んでいた茅葺の家と日本人の女の先生のこと。日本人の先生はおとなしくきれいな先生だったそうで、わかるまで根気よく教えてくれたそうです。が、時に厳しく、たたかれることもあったよと話してくれました。
放映室もあり

放映室もあり

開館中はタロコ族の文化や歴史について流されています

開館中はタロコ族の文化や歴史について流されています

口簧琴や木琴などの楽器

口簧琴や木琴などの楽器

子供たちが描いた絵

子供たちが描いた絵

手工芸品も展示しています

手工芸品も展示しています

文物館前の像

1914年、日本軍と原住民の最大で最後の衝突となった太魯閣戦争ですが、タロコ族の馬黒揚家族の血を引くHarung Pilay(哈隆比代)頭目が、家族の命脈が絶たれないよう勇敢に戦ったということが碑に書かれていました。彼は熟知した高山地形を利用し、巧みに日本軍に奇襲攻撃をしかけ、致命的な状況に立たせました。最終的に日本軍は兵力を増強させ、Harung Pilayも戦火の中で息絶えましたが、最期に虹の橋を渡った勇敢な彼の戦いは、モリサカでは「馬黒揚之役」として語り継がれ、ここに記念像が建立されています。
★映画「セデック・バレ」でも第二部のタイトルにもなった「虹の橋」ですが、タロコ族も人は死後、祖先の霊がいる霊界へ帰るのですが、霊界へは虹の橋があり、入れ墨がある者だけがその虹の橋を渡ることが出来ると言われています。

かつての風習

タロコ族は、男女とも16歳~20歳ごろに顔面に刺青をおこないました。男は狩猟や敵の首をとったことを示すために顎にいれ、女性は、大人になったことと織物の技術が優れ、美しさを増すものとして両頬に入れました。館内の写真の一枚一枚に深いストーリーが詰まっています。
以上、台北ナビでした。

記事登録日:2017-06-06

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スポット登録日:2017-06-06

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