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長い間語ることを許されなかった台湾の歴史の1ページ、今の台湾を深く知るためにも、ぜひ訪れて台湾の歴史を感じてください

こんにちは、台北ナビです。 MRT「台大医院」駅1番出口を出ると、そこはもう二二八和平公園。今日は、この公園内にある「台北二二八紀念館」を目当てにやってきました。この記念館は、台湾で起こったある重要な事件を教えてくれる場所なのです。そう、それは二二八事件。何度耳にするものでも、それがどんなに台湾にとって大事な事柄なのか、ナビもここを訪れるまでは知りませんでした。 

紀念館が開くのは午前10時。まだ時間までちょっとあったので、その間公園を散策することに。公園の中ほどまで行くと、1995年に建立されたというモニュメントが目に入ります。近づいていくにつれ、サラサラと水の音が聞こえてきます。このモニュメントの中央に向けて水が流れ込むようになった設計。踏み石を伝って真ん中まで入っていくと、中央が空洞になった丸い大きな石があります。石の側面に両手で押された手の跡が。そこに手を合わせて下を覗き込むと、水が流れ込む様子が見え、自然と頭を垂れる形になります。
これは二二八事件をきっかけに、平和のメモリアルのために建てられたんだそう。そうすることで、二二八事件の犠牲者の人たちに敬意を払う、そんな工夫がされていました。そういえば、ここの公園、昔「台北新公園」という名前だったのが、「二二八和平公園」に改名されてます。一体どうして? 
ここに手を合わせて頭を垂れて拝むように、下を見ます

ここに手を合わせて頭を垂れて拝むように、下を見ます

二二八和平公園の由来

1908年に開園した当初の名称、「台北新公園」は歴史的な事件を経て、1996年に、当時台北市長を勤めた陳水扁氏によって「二二八和平公園」という名称に改められました。台湾の歴史において、どんな重要な事件が起こったのかが、この二二八に関係するからです。 

1947年2月28日に起きた二二八(ニーニーハチ)事件は、台湾の最も悲しい歴史だと言えます。ナビは二二八事件を深くは理解してなかったのですが、今回の取材を通して、心にじーんと響きました。さて、開館の時間となったので、中に入って最近リニューアルされたばかりの展示室を回ることにしました。入口付近のサービスカウンターで無料の音声ガイドを借り、いざ中へ。壁にエリアの展示番号が貼ってあって、そこに音声ガイドの器械をかざすと、そこのエリアの解説が始まります。イヤホンをつけると、とても分かりやすく、丁寧に解説されたガイドが、日本語で流れてきました。(ガイドは中国語と英語もあります) 
この紀念館の所在地は、もともと日本統治時代に「台北放送局」(ラジオの放送局)が設置されていたんだそうです。それは二二八事件で多大な犠牲を出した発端ともなった場所。事件の起きた1947年当時は、まだ各家庭にラジオなどなく、拡声器を植え込んだ、放送塔なるもので放送を流していたんだそうです。
これがその放送塔、台中公園内にも残っています

これがその放送塔、台中公園内にも残っています

当時ラジオ局で使われた機材

当時ラジオ局で使われた機材

あの頃のラジオがあります

あの頃のラジオがあります

大きなマイク!でもこれは拡大したレプリカ

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「二二八事件」とは?

1945年まで50年間、日本の統治を経てきた台湾は、終戦とともに当時の中国国民党政府が主権を握ることとなりました。今まで生活のすべては日本語であったのに対し、今度は中国語に切り替えなくてはなりませんでした。台湾現地にもともと居住していた人たちは、いろいろなところでさまざまな差別にも遭い、不平等感が蔓延していました。1947年2月27日、ある闇タバコを売る女性が警察に取締りを受け、暴行されました。それを目の当たりにした周囲の民衆が助けようと集まったのがきっかけで、警察側が発砲し、市民の一人が銃弾に倒れました。
あの頃に配られたビラ

あの頃に配られたビラ

当時売られていたタバコ

当時売られていたタバコ

中国本土からやってきた国民党の人たちとの間に文化の違いがあることや、とりわけ言葉の壁は、台湾本土の人民を大半の政府やそれに関連するポストから遠ざけさせていました。つのる不満を抱え、闇タバコの一件から当時煙草の販売を管轄していた専売局に市民たちは抗議文を届けようと、デモ行進をしました。しかし、もぬけの殻になった専売局では、抗議文は受け取られず、民衆は怒りを爆発させたため、警察と衝突を起こしました。先に出た台北放送局は、不当な権力に抵抗するデモの人々がそこを占拠し(現在の台北二二八紀念館所在地)、闇タバコの不正な取締りの様子を全国に向けて放送したのでした。こうして台湾全土にことは広まり、もともと台湾の自治運動を支援する知識層の人々も、その輪に加わることとなりました。こうして二二八事件の導火線に火はつけられたのでした。中国からやってきた人たちは外省人で、台湾本土の人たちは本省人。この事件がきっかけで、お互いにいがみ合い、果ては殺し合うことになってしまったのです。 
あの当時結成された台湾民衆党

あの当時結成された台湾民衆党

展示室にはこのようにリメイクされた瓦礫があり、十分当時の感じが伝わります

展示室にはこのようにリメイクされた瓦礫があり、十分当時の感じが伝わります

 二二八事件での犠牲者は、主に容疑をかけられた本省人、憲兵隊によって無差別に鎮圧を受けた人々を合わせ、およそ28,000人にも上るとされています。実際にはそれ以上の犠牲者がいるとされており、今でも政府や民間による調査が行われています。この事件から1987年にいたるまで、台湾では戒厳令が敷かれ、人々は事実上、政府当局による権力行使が強いられる生活が続いたのでした。 
日本統治時代が終わり、国民党を歓迎するための横断幕

日本統治時代が終わり、国民党を歓迎するための横断幕

当時の人民生活を風刺した四コマ漫画

当時の人民生活を風刺した四コマ漫画

展示室のご案内

こちらの展示室は、1階と2階に別れています。最初に入口付近のサービスカウンターで日本語の音声ガイドを借り、イヤホンをつけて展示物の番号順に進みます。緑色の番号の札が壁に貼ってあって、そこに音声ガイドの器械を近づけると、「ピッ」という音とともにガイドが始まります。説明が結構長いのもありますが、とても分かりやすく丁寧に解説されているので、どんどん先を知りたい気持ちになります。展示室は全部で12室。とてもアカデミックで、中にはITを駆使したパズルやパネルもあり、子供たちにも理解されやすいと思います。 
画面をタッチすると説明が出てきます

画面をタッチすると説明が出てきます

パネルをさわってできるパズル

パネルをさわってできるパズル

ナビが一番衝撃を受けたのは、銃弾の当たった痕跡のある書籍や、血痕がついた衣服が展示されていたこと。その生々しさは鳥肌が立つほど。番号9の展示室「受難曲」は、半円形のガラスで囲まれ、そこに犠牲者の写真が貼られています。真ん中には、木彫りの妊婦と老婆、そして子供。等身大のその彫刻は、後ろにいる老婆と子供を守る妊婦の、敵や危険を前にしても怯む様子などない気迫を感じ、見る者の目に迫るものがあります。
銃弾の痕がくっきり残っている本

銃弾の痕がくっきり残っている本

犠牲者の写真

犠牲者の写真

弾痕と血痕のついたシャツ

弾痕と血痕のついたシャツ

憲兵隊によって処刑される場面

憲兵隊によって処刑される場面

台湾の民主化にとって不可欠だった二二八事件

今ではまったく考えられないのですが、この事件がとても悲しいのは、同じ台湾人同士がお互いに殺傷し合い、多大な犠牲者を出してしまったということです。しかも戒厳令のもと、事件について発言することは厳禁とされ、人々は長い間、抑圧された感情を抱えながらずっと生活し続けたのでした。
228事件の犠牲者に捧げる詩が展示されている部屋

228事件の犠牲者に捧げる詩が展示されている部屋

その当時と現在の様子が対照的になってます

その当時と現在の様子が対照的になってます

実は、台北二二八紀念館には228事件を実際に体験された、蕭錦文さんという方が毎週火曜日の午前中にこの紀念館のボランティアをなさっています。蕭(シャオ)さんにお話を伺う機会に恵まれたので、その模様をここでご紹介したいと思います。  

228事件の生き証人・蕭錦文さんへ、ミニインタビュー!

二二八事件の生き証人・蕭錦文さんへ、ミニインタビュー!

 Q:蕭錦文さんは実際に228行進やその後の粛清も経験されているのですよね? 

A:はい、私は義父が経営する「大明報」の新聞記者だったので、デモ行進を記事にしようとついていきました。初めは20~30人ほどの青年がはじめたものだったのですが、どんどん増えていって、最後は500人くらいには膨れ上がったのではないでしょうか? 
というのも、この二二八紀念館は以前ラジオ局で、そこをジャックして市民に向けて放送したからなんです。もともとは専売局に抗議文を届けるための行進だったのに、途中の専売局の支局を一部の青年が襲撃したことで相手の感情を刺激してしまって、専売局はもぬけの殻、というので、行政省の公所へ行って当時の行政長官の陳儀に渡そうってことになってみんなで行ったら、ロータリーの前で何人か銃殺されて…こっちも外省人を見たら殴ったしね、殺したりも…そんなんであっという間に手がつけられなくなったんだ。抗議文の内容?わからないなぁ、でも当時台湾にも高度な文化があったのに国民政府は認めてくれなかった。同じ民族なのに同胞として認めてくれないって、みんな政治に不満を感じていたんだ。
 

 Q:蕭錦文さんも国民政府にもう少しで処刑されるところだったとうかがいましたが?

 A:義父が二二八の実行委員会だったんだけど、おおごとになった後、逃げてしまってね。それで僕が連れて行かれた。目隠しをされて、地下室に連れて行かれて拷問が続いた。僕の弟は勉強会に出席したといって処刑された。でも僕はどうしてかな、助かった。後で聞いた話によると、当時の国民党の白崇禧国防長が台湾にきたときに、叛乱分子が捕らえられているのではなくて台湾のエリートが裁判にかけられることなく処刑されるのを見て驚いて、これからは裁判なしに処刑をしてはいけないって決めてくれたかららしい。

 Q:名誉回復証明書とはどのようなものなのでしょうか? 

A:台湾は38年の間、戒厳令がしかれていたでしょう?この名誉回復証をもらうまで、僕らは被害者であるはずなのに犯罪者だったんだ。戸籍に叛乱罪ってかかれていたんだよ!何もしていないのに。僕は2003年に陳水扁元総統からこれをもらって、やっと56年間の冤罪が晴れたんだ。228紀念館ができたとき、事件の真相を知ってる人間は多くないから、僕がみんなに伝えたいと思ってすぐにボランティアに立候補したんだ。去年の夏には大阪にも講演に行ったんだよ。今年も2月25日に二二八和平公園で行われるセレモニーに参加するんだ。 

 Q本日はお忙しいところをありがとうございました 

A:いえいえ、また何かあったら聞きにきてください。

 現在は民主化が進んだ台湾でありますが、それというのも二二八事件を始めとした一連の民主化運動を経て、初めて成し得たんだと思います。多大な犠牲を払い、台湾の人々にようやく春が来た、そんな感じがします。ナビが思うに、それだからこそ、東日本大震災でもいち早く、あれだけの義捐金を日本に届けられたんでしょうか。
台湾の人々は、他の誰よりも人の痛みが分かるのでしょう。それは彼らの歴史がはっきりと証明してくれてるような気がします。平和って本当に大事ですよね。
台北ナビでした。

記事更新日:2012-02-10

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上記の記事は取材時点の情報を元に作成しています。スポット(お店)の都合や現地事情により、現在とは記事の内容が異なる可能性がありますので、ご了承ください。

スポット登録日:2006-02-24

スポット更新日:2014-09-23

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