陳景蘭洋楼(金門県)

陳景蘭洋樓

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金門には洋館が多いのですが、一番大きい洋館はこちらです


こんにちは、台北ナビです。
元から明の時代、中国本土から移住する人たちが増えてきた金門、その環境は台湾本土からするととても苛酷でした。小さな島ゆえ、男たちは生活のため7,8歳から海に魚釣りへ、女は漁網をはることで一生を終る人も多かった時代です。

今から120年ほど前、漁業以外で身を立てられない貧しい生活から脱出すべく、多くの金門人が南洋へと向かい始めました。外地で成功を収め、故郷に錦を飾るのに、地元に戻ってまずすることは、洋館を建てること。これが「成功」を多くの人に知ってもらう証しとなったわけです。
金門の観光地は、ほとんど入場無料です

金門の観光地は、ほとんど入場無料です

日本語、と思いきや名前だけでした

日本語、と思いきや名前だけでした

1921年建立

1921年建立

建物撮影には必ず入ってくる左側の木は、樹齢92年。2013年に説明を取り付けたので、建物と同じ年齢です

建物撮影には必ず入ってくる左側の木は、樹齢92年。2013年に説明を取り付けたので、建物と同じ年齢です

建物の中央には景蘭山荘の文字

建物の中央には景蘭山荘の文字

完璧で美しい

陳景蘭洋樓は、金門で一番大きなかつ完全な形を留めている洋館で、1921年にシンガポールの華僑である陳景蘭が建設しました。地元の人たちからは、当時の地名を取って「陳坑大洋樓」と呼ばれたそうです。
建物の中にもりっぱな家系図がありますが、陳景蘭氏は、1881年出生。20歳の時、家計を助けるためにシンガポールへ渡りました。「金福和商號」に就職し、出納係を担当。給与のほとんどは金門へ送金していたそうです。やがてここで満足しちゃいけないと思ったのか、「成源商號」という会社を副業で始めたところ、こちらが大儲け。
1917年、陳氏36歳の時、故郷の地で洋館建設に着工したのです。陳氏が生まれた時は清朝の時代。シンガポールへ渡った1901年、台湾はすでに日本統治時代、陳氏は日本統治時代が終わる前の1943年、62歳で生涯を終えますが、建物はその後の台湾と同じ運命をたどるかように、歴史の波にもまれていきます。

教育重視の金門人


洋館を建てた後にすることは、学校を作ること。
貧しさから抜け出すには高い教育が必要だと感じていた金門人は、今でも教育を重要視しています。実際金門県は多くの文人を輩出しているのです。台湾本土とは違う、金門人の文化や民族風習に興味があれば、ぜひ「金門文化園区歴史民俗博物館」にも足を運んでくださいね。

陳氏は、洋館を作った後まもなくして、建物を「陳坑小学校」として使用し始めました。家族は校舎内の一部に住んでいました。天井が高い2階建ての様子は、当時貴族学校のような雰囲気だったのでは?という感じもします。学費は無料でした。
子供たちもこういう環境で、一生懸命勉学に励むことができたなんて幸せですね。1階の広場からも美しい料羅湾は望めますが、2階の渡り廊下からみると絶景です。
1階の様子 1階の様子

1階の様子


2階はベランダからの景色が絶景! 2階はベランダからの景色が絶景!

2階はベランダからの景色が絶景!

さて、教育の地盤が作られたら、次は公共に貢献すること。これが当時の成功者(=お金持ち)のコースとなっていたのです。思えば、このようなコースは今になっても健在のようですね。
ところが、陳氏の時代は戦争も世界各地で勃発。1949年以降は国民党軍によって、「陸軍大五十三醫院」、いわゆる野戦病院として、建物は使用されました。その後は金門中学や軍人の休暇の場所となります。故蒋介石総統と宋美齢などの政界人のほか、テレサテンも宿泊したことがあるそうで、館内には彼女の幼い頃のポスターもあるので、探してみてくださいね。
時代の波に翻弄されながら、激動の時代を生きてきた陳景蘭洋樓ですが、建物を多くの人に使用してもらっていたからこそ廃墟とならず、ほぼありのままの姿で、今まで生きながらえてきたのかもしれません。
さて、そして今は、多くの観光客に建物を開放しているのですが、あれ?陳景蘭の子孫は、今のこの平和な時代、建物にちょっと手を入れてこちらへ住もうとはしないんですか?との疑問をガイドさんに聞いたナビ。陳氏の4人の息子たちは、後にシンガポールと台湾へ分かれました。ここには住まないけど、今この建物の近くに住んでいる子孫もいるそうです。
というのも、陳景蘭氏は遺書の中に「建物は売却しないで、子孫代々までこの地に住む陳姓の子孫たちが共同で使用してほしい」と書かれたからだそうです。
建物の横にも小さ目のきれいな洋館がありますが、こちらは金門日報社。金門戦地文学の地です 建物の横にも小さ目のきれいな洋館がありますが、こちらは金門日報社。金門戦地文学の地です

建物の横にも小さ目のきれいな洋館がありますが、こちらは金門日報社。金門戦地文学の地です

ぼおーっとしたい庭

建物の前庭からは美しい料羅湾の海が望め、海岸へ降りることも出来ます。海岸と建物の間の公園は「金湯公園」といいます。自由の女神を思わせるような銅像がありますが、この銅像の前から建物を後ろにして眺めると、気のせいか勝利&成功の女神のように見えてくるのが不思議です。
若くして目の前に見える料羅湾からアモイへ渡り、約一か月の船の旅の末に、当時イギリス領だったシンガポールに到着した陳景蘭氏。故郷で読み書きを学び、多少の学識も携えて行ったので、異国で苦力にならなくて済んだそうです。
日本が台湾本土を支配下に置いている時、日本はある意味闊達自在の時代でした。南洋に渡った金門人もそのような人物が多かったのでしょうか。建物を後方に像を見上げていると、往年の陳氏の活躍ぶりが目に浮かんでくるようです。
上から公園を見下ろしてみました

上から公園を見下ろしてみました

庭から建物を見ました、迫力ある感じ

庭から建物を見ました、迫力ある感じ

海には船が

海には船が

子供の遊び場もあり

子供の遊び場もあり

こちらは成功坑道へ行く小道

こちらは成功坑道へ行く小道

成功坑道


「金湯公園」からビーチへ目を向けると、右側に細い道があり、成功坑道につながっています。陳景蘭のムードとはがらっと異なりますが、1963年に作られた全長620mの坑道。
内部には寝室、厨房などの兵士が生活していた痕跡があります。また、機関銃や57戦防砲、90高砲の展示があります。
下へ降りて行きます 下へ降りて行きます

下へ降りて行きます

坑道の中からも海が見えます、昔はこうやって偵察していたんですね 坑道の中からも海が見えます、昔はこうやって偵察していたんですね 坑道の中からも海が見えます、昔はこうやって偵察していたんですね
坑道の中からも海が見えます、昔はこうやって偵察していたんですね 坑道の中からも海が見えます、昔はこうやって偵察していたんですね 坑道の中からも海が見えます、昔はこうやって偵察していたんですね

坑道の中からも海が見えます、昔はこうやって偵察していたんですね

反対方向の入口に抜けました 反対方向の入口に抜けました

反対方向の入口に抜けました


小さ目の坑道を抜けきると、美しいビーチが眼下に見下ろせます。
景色もいいし、お天気もよかったら、建物の周辺にある坑道やビーチなども含め2時間ほどゆっくりと散策してみてください。
散歩にもいいですね 散歩にもいいですね

散歩にもいいですね

観光地の美食


陳景蘭洋楼まで行く時、是非立ち寄っていただきたいのが、「成功鍋貼」。
看板の鍋貼(焼き餃子は、焦げがおいしい。卵入りでというと、卵もからめてくれます。形は細長いのではなく、水餃子のような形で小ぶり。注文は30個からになります。
鍋貼だけじゃなく、いろんなメニューがあるので、試してくださいね。
餃子を作るスピードは超高速でした 餃子を作るスピードは超高速でした
餃子を作るスピードは超高速でした 餃子を作るスピードは超高速でした

餃子を作るスピードは超高速でした

以上、台北ナビでした。

記事登録日:2014-09-09

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スポット登録日:2014-09-09

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